#0:サラリーマン

2020.10.1
#0:サラリーマン


 サラリーマン。私の人生において、1度もなりたいと思ったことのない仕事。いや寧ろ10代の頃は、サラリーマンにはなりたくねぇ。

 サラリーマンにだけはなりたくねぇ。と、思っていた。


 思えば小2の時から夢を見ていた。

 小1の時に出逢ったプロレスラー、タイガーマスク(初代)。そしてタケちゃんマン(ビートたけし)。

 6才、7才ならアニメや特撮に夢中になっている年頃、しかし私はタイガーマスク、タケちゃんマンと、キャラクターではあるが、生身の人間がやっていることに心を持っていかれた。

 タイガーマスクのライバル、ダイナマイト・キッド、その周りにいるアントニオ猪木、藤波辰巳(辰爾)、長州力、タケちゃんマンのライバル、ブラックデビル(明石家さんま)、その周りにいるひょうきん族のメンバーに夢中になっていた。


 8才、

 「プロレスラーかお笑い芸人になろう」

 もう決めていた。

 小4、10才の時にはもう完全に、決めていた。

 この頃は芸人がプロレスのリングに上がることなんてなかった。

 逆に、

 プロレスラーがお笑い番組で戯けるなんてこともなかった。

 プロレスラーかお笑い芸人

 どちらかひとつだな。10才ながらに思っていた。

 この頃、同じく夢中になっていたのがゲーム。ゲーム&ウォッチから始まり、カセットビジョン、ぴゅう太、ウチにはなかったが、何処かで集まってやっていた。与作とゆうゲームが凄く流行っていたが、家にゲーム機がある子供は少なかった。

 ゲームがある子の家にみんなが集まり、よく見たら何処の誰だか分からない子が紛れたりしていた。ウチには家庭用のブロックくずしのゲーム機があった。家のテレビでゲームがやれるのが嬉しかった。

 そして、1983年、ファミリーコンピュータ登場。これまでの家庭用ゲームと違って絵や動きが綺麗だった。ソフトも一気に色々発売された。ドンキーコング、マリオブラザーズ、ゲームセンターやローカルスーパーの外に並んでいた立ってやるゲーム台で遊んでいたゲームがそのまま家にやってきた。瞬く間に日本はファミコンブームになった。

 ウチに初めてファミコンが来たのは翌84年の誕生日(11月20日)。ファミコン登場から1年数ヶ月後に買ってもらえた。四角いゴムボタンがプラスチックの丸ボタンになった頃だ。ゴムボタンは使い込むと押されたまま戻ってこなくなるので、連打を多用するシューティングゲームには向いていなかった。ある意味良いタイミングで買ってもらえた。初めて買ったソフトはF1レース、次にマッピー。

 ファミコン世代ではあるが、岡山の田舎の子供だから基本は外で遊んでいた。川に行ったり、山に行ったり、近所の駄菓子屋や公園に集まったり。

 トモダチが何人か集まった時は、何処まで遠くまで行けるか行ってみたりした。なんとか駄菓子屋でお菓子を買う以外の百円玉を捻出しキン消しのガチャガチャをやりに行った。

 キャプテン翼もブームだったのでサッカーもやった。ファミコンは登場したけど、毎日外でも遊んでいた。

 山に行った時は落ちてるエロ本を探した。「おい!やらしいのがあるぞ!」と雨で濡れたエロ本を棒でめくったりしていた。

 小学校高学年になるとお笑い界には、とんねるず、ダウンタウンが現れオレたちのスターになった。

 プロレスにも夢中のまま、新日本プロレス、全日本プロレス、アメリカンプロレス、ルチャリブレ、雑誌やテレビで全部見た。


 プロレスラーか芸人。

 思えばそのままそれに向かって行った10代だった。

 15歳、中学を卒業した2日後に岡山から単身上京した。

 ボストンバッグと、何故かギターを持ってひとり新幹線に飛び乗った。

 単身上京といっても東京には9つ年上の姉がいた。姉は数年前から東京で看護師をやっていた。新宿の病院から町田の方の病院に移動した際に、春に弟が上京してくるのでと寮代わりにコーポの家賃を負担してもらっていた。 

 町田市の成瀬とゆう町に住み始めた。玄関入ってリビングがあって左が姉ちゃんの部屋、右がオレの部屋。

 当時はバンドブームだったので、ライブハウスや武道館、横浜アリーナでライヴを観まくった。

 プロレスも後楽園ホール、国技館、武道館、横浜アリーナ、団体問わず観に行きまくった。


 上京して10ヶ月。姉ちゃんが急に結婚すると言い出した。ここでウチの親は岡山に帰ってくると思った様だが、オレは代々木の六畳一間の風呂なしアパートに引っ越した。学校が代々木高校だったから代々木に住もう!とゆう理由。

 こうなると後楽園ホールが近い近い!町田の成瀬から片道1時間半掛けて行っていた後楽園ホールが家を出てから20分で行けるようになった。新宿LOFTにも歩いて行ける距離だったから終電気にせずいつでも行けた。バイトは同じクラスの高橋くんの親戚が営んでいる仕出し弁当屋で働いた。定時制高校だったので朝昼働いて夕方から学校に行く。学校は代々木上原にあった。

 風呂なしアパートに住むことにより、16歳にして銭湯の良さに気付く。午後にバイトが終わり午後4時に近所の銭湯に行く。一番風呂だが、だいたい毎日開店同時に来る爺さんがいる。先に服を脱いで速攻でシャワーを浴びて浴槽に浸かったものだ。そのあと学校へ。帰りはいつも同級生とゲームセンターへ。テトリスやストリートファイターⅡをやった。WWFのプロレスゲームもよくやった。

 ちなみに猫ひろしに私が伝授した「昇竜拳!」とゆうギャグは私が高校生の頃、渡り廊下ですれ違う同級生同士でやっていたギャグだ。

 身長が185cmに届かなかったので、プロレスラーになるのは諦めていた。中3の時に120Kgあった身体を高1で75Kgまで落として毎日筋トレをやっていた。キックボクシングの練習もしていた。しかし、身長は177cmで止まってしまった。

 今でこそ私より背の小さいプロレスラーはたくさんいますが、90年代前半はまだ180cmがまず書類選考で受かる条件でした。私は1.2の三四郎の様に気合で185cmになるつもりだったが、毎日牛乳を2リットル飲んでも177cmで終わってしまった。

 それもあって、高校の時は周囲のみんなに「オレお笑い芸人になるから」と言っていた。

 ワケあって二十歳まで高校へ行き(人より勉強がしたかったから)、次の春に卒業とゆう時にテレビのCMで吉本興業の養成所NSCの東京校がオープンするとゆうのを見て、願書を書いて銀座七丁目劇場で面接(オーディション)を受け、後日合格通知が着て、高校を卒業した次の月から吉本興業へ通い出した。


 そのあとも色々あったが、今現在芸人をやっているので二十歳から現在(45歳)まで、ずっと芸人をやっている。

 私は私生活も含め芸人としてしか生きてこなかった。

 文字通り我が人生にサラリーマンとゆう道は無し

 の人生を送ってきた。 


#1に続く……